先哲

野上 弥生子(のがみやえこ)

野上弥生子

野上弥生子は、明治18年(1885年)臼杵市の酒造業の代屋(現小手川酒造)二代目小手川角三郎とマサの長女として生まれました。

幼少期は、自家の周辺で郷土色豊かに過ごしました。14歳で勉学のため上京し、明治女学院に入学し、卒業後21歳で同郷の野上豊一郎と結婚しました。

夏目漱石を師とする夫の文学的環境の中で小説を書き始め、文学者としての道を歩きだしたのです。以後、99歳まで現役作家として、「海神丸」「真知子」「迷路」など多数の作品を発表しました。

昭和39年に「秀吉と利休」で女流文学賞を受賞し、昭和46年には文化勲章を受章しました。

昭和47年に87歳で長編「森」の執筆にとりかかりましたが、最終章をわずかに残して昭和60年ご逝去されました。

弥生子を偲び遺徳を顕彰するため、生家である小手川酒造の一部を改修し、「野上弥生子文学記念館」を開設しています。

野上弥生子文学記念館

野上弥生子文学記念館は、昭和61年9月に開館し、弥生子の幼女の頃から99歳で亡くなられるまでの生涯の遺品約200点を展示しています。館内では少女時代の勉強部屋なども見学できます。

野上弥生子文学記念館
住 所:
臼杵市浜町538
電 話:
0972-63-4803(野上弥生子文学記念館)
営業時間:
9:30~17:00
定休日:
年中無休
料 金:
大人300円、子人(小中学生)150円
20名以上団体割引
*毎月第一日曜日は臼杵市民は無料で入館できます。
(免許証、保険証、学生証等要提示)
ホームページ:
http://www.fundokin.co.jp/yaeko/memorial/
地 図:
野上弥生子文学記念館の地図を見る
備 考:
国登録有形文化財(野上弥生子成城の家)

野上弥生子文学碑

野上弥生子文学碑

臼杵城跡(臼杵公園)に1986年に建立された文学碑です。小説「迷路」の一節の刻まれた文学碑があります。

野上弥生子成城の家

野上弥生子が東京の成城で住んだ家を現在地(臼杵市祇園東)に移築したものです。スペイン瓦で葺いた急勾配の屋根やモルタル仕上げの外壁等を持つ洋風の外観に昭和初期の東京における郊外住宅の特徴がよく表れています。

現在、外観の見学は自由ですが、敷地内に入ることはできません。

野上弥生子成城の家
住 所:
大字臼杵70-15
地 図:
野上弥生子成城の家の地図を見る
備 考:
登録有形文化財(建造物)

吉丸 一昌(よしまるかずまさ)

吉丸一昌

吉丸一昌は明治六年(1873年)大分県北海部郡海添村(臼杵市海添)の下級士族の家に生まれました。

小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、1889年大分中学(現大分県立大分上野丘高等学校)に入学、1894年に卒業しました。

東京府立第三中学校教諭となり、その後東京音楽学校(現東京芸大)の教授、文部省唱歌教科書編纂委員となり、明治末期から大正初期にかけて「早春賦」「木の葉」「故郷を離るる歌」(ドイツ民謡)など多くの唱歌を作詞しました。

吉丸一昌記念館 『早春賦の館』

「早春賦」や「故郷を離るる歌」の作詞者で、有名な国文学者であった吉丸一昌(1873~1916年)。彼は43歳の若さでこの世を去るまで、作詞家として斬新な童謡や文部省唱歌を数多く手がけました。

夫人の実家であった記念館には、当時の遺品や楽譜など、ゆかりの品々を展示しています。

吉丸一昌
住 所:
臼杵市大字市浜980
電 話:
0972-63-7999(吉丸一昌記念館)
営業時間:
8:30~17:00
定休日:
年中無休
料 金:
大人210円、小人(小中学生)110円
駐車場:
有り(2台)
ホームページ:
 
地 図:
吉丸一昌記念館の地図を見る
備 考:
国登録有形文化財

荘田 平五郎(しょうだへいごろう)

弘化4年(1847年)臼杵町(現在の臼杵市)塩田に生まれました。明治2年24才の時慶応義塾へ入塾し、優秀だった平五郎は福沢諭吉により義塾の教師に抜擢されています。

明治8年(1875年)に平五郎は三菱商会へ入社し、東京海上火災保険会社の創設にあたり、明治生命保険、キリンビールなどを設立しました。三菱商事支配人を経て明治30年(1897年)には三菱造船所の支配人となりました。のちに三菱の最高幹部を務めるなど日本経済の発展に大きな功績を残しました。

荘田平五郎記念こども図書館

臼杵市出身の荘田平五郎氏(1847~1922年)が1918年に寄贈した大正時代の建物が、平成15年4月1日から臼杵図書館付属の「荘田平五郎記念こども図書館」に生まれ変わりました。

荘田平五郎記念こども図書館
住 所:
臼杵市大字臼杵6番地の16
電 話:
0972-62-3405(臼杵図書館)
営業時間:
9:30~18:00
定休日:
火曜日及び最終木曜日
料 金:
無料
駐車場:
なし
ホームページ:
http://www.city.usuki.oita.jp/categories/bunya/kyouiku/tosyokan/
地 図:
荘田平五郎記念こども図書館の地図を見る
備 考:
 

村瀬 庄兵衛(むらせしょうべえ)

江戸時代中期、どこの国も財政悪化に悩まされます。天保の時代に入ると、臼杵藩も莫大な負債を抱えてしまい、財政は窮地に追い込まれます。

そこで立ち上がったのが、11代藩主・稲葉雍通(いなばてるみち)です。雍通は、臼杵藩の江戸詰め家老であった村瀬庄兵衛を財政改革の総指揮を担う「総元締(そうもとじめ)」に任命し、改革に着手しました。この改革により役人の意識改革も成されました。藩主や役人も質素な生活をして手本を示していたので、庶民もそれに素直に従っていたようです。

庄兵衛の改革により、臼杵藩の負債は1848年には半分以下にまで減少、その成功の秘訣は、身分に関わらず、臼杵の人々が心を一つにして取り組んだからだそうです。臼杵では、この質素倹約精神がいまも受け継がれています。

サーラ・デ・うすき

臼杵市中央通商店街と二王座歴史の道に面した場所にある「サーラ・デ・うすき」は、市民・観光客の憩いとくつろぎの場として、まちんなか交流館、工房学古館、イベント広場、ふれあい情報センターの4つのスペースがあります。

この敷地は、その昔稲葉藩の財政再建を行った村瀬庄兵衛の屋敷跡であった場所で、その後、創業1600年(慶長5年)から味噌・醤油の製造販売を続けている可児醤油の工場があった場所を、市が買い取りこの施設を建てました。

サーラ・デ・うすき
住 所:
臼杵市大字臼杵210-3
電 話:
0972-64-7271(サーラ・デ・うすき)
営業時間:
9:00~18:00
定休日:
年中無休
料 金:
入館は自由(無料)
駐車場:
市営駐車場をご利用下さい。
ホームページ:
なし
地 図:
サーラ・デ・うすきの地図を見る
備 考:

直良 信夫(なおらのぶお)

直良信夫(なおらのぶお)は、日本の考古学史上初めて日本列島に住んでいた「日本原人」の骨を発見した人物です。この骨は、後に採取した場所の名を冠し、「明石原人」と命名され、その名は広く世に知られるようになりました。

彼は、明治35年(1902年)臼杵市二王座の切通しにおいて、村本家の次男として生まれました。彼は貧しい生活環境にありましたが、勉学への志を捨てがたく上京し、考古学や古生物学の学問にいそしんでいましたが、苦学の中で病におかされ、転地療養のつもりで臼杵に帰る途中、子供のころ生家の近所に下宿していてよく勉強を教えてくれた直良音先生が姫路の女学校に勤務しているのを思い出し訪れます。この訪問が後の彼を不思議な運命へと導くことになります。

音先生との結婚、そして昭和6年(1931年)明石の西八木海岸において、日本で最初の原人骨発見へとつながっていきます。

直良信夫顕彰記念館

二王座歴史の道の切通しといわれる道の傍らにある長屋が直良信夫の生家です。生家跡を資料館として信夫縁の資料を展示しています。

直良信夫生家跡
地 図:
直良信夫生家跡の地図を見る
※入館料は無料です。

首藤 定

明治23年臼杵市野村の農家の長男として生まれ、21歳の時に臼杵出身の白須 直を頼り満州の旅順に渡りました。当初は苦労を重ねた定だったが次第に事業が成功し、満州を代表する実業家となり、大連商工会議所会頭等要職を歴任しました。そのころ定は福田平八郎など多くの芸術家達の世話をし、同時に美術品収集を行っていましたが、昭和20年日本の敗戦により、満州にいた日本人の困窮者のために収集した美術品と食料との交換をソ連軍司令官に申し入れ、100トンの食料が配給されました。その時の美術品は現在ロシア国立東洋美術館で保管されています。

定は昭和22年春に故郷臼杵へ引揚げ、その後大分県経営者協会会長、大分県物産協会会長、日中友好協会県連会長などの要職を歴任し、大分県経済界の顧問格として活躍、昭和34年(1959年)68歳の生涯を閉じています。

首藤定顕彰碑

生家の近くに、その偉業に感謝し顕彰碑が建てられています。

首藤定顕彰碑
住 所:
臼杵市野村
駐車場:
1台あり
地 図:
首藤定顕彰碑生家跡の地図を見る

山本達雄(やまもとたつお)

臼杵市海添に生まれ、1880年(明治13年)三菱商業学校卒業後、教員を勤めたが、1883年に三菱会社に入社しました。1890年に日本銀行に入り、1898年には第5代総裁に就任しました。退官後は、貴族院議員、日本勧業銀行総裁を経て、1911年第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の蔵相に就任しました。

現JR九州の日豊本線が臼杵まで延伸されたのは政友会・山本達雄の力によるものといわれています。

臼杵駅

臼杵駅

絵:臼杵市出身の画家 玉田信行氏作品より。

住 所:
臼杵市大字海添2573-2
駐車場:
あり
地 図:
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箕浦勝人(みのうらかつんど)

臼杵市海添に生まれ、福澤諭吉のいる慶應義塾に入学し、大学卒業後郵便報知新聞社に入社しました。新聞記者の後、師範学校の校長も歴任し、明治15年に東京府議会議員になり政治家の道を歩み始めました。明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、大正4年(1915年)から大正5年(1916年)まで第2次大隈内閣の逓信大臣を務めました。

同郷の政治家山本達雄にライバル心を燃やし、憲政会・箕浦勝人の一派による誘致により、鉄道省としては異例の近距離にもうひとつの駅が設置されました。それが上臼杵駅です。

上臼杵駅

1917年(大正6年)に開設された駅で、臼杵駅からわずか1.6Kmの距離にあります。駅舎は古く、大林宣彦監督作品「なごり雪」のロケ地として使われました。

上臼杵駅

絵:玉田信行氏

住 所:
臼杵市
駐車場:
あり
地 図:
上臼杵駅の地図を見る

中根貞彦

中根貞彦は臼杵市の二王座の片切八三郎(西南戦争により31才で戦死)の三男として明治11年(1878年)に生まれ、両親のいない不幸な少年時代を送りました。高等小学校(現臼杵市立東中学校)を卒業し、佐伯の中根家の養子に入り、東京帝大を卒業して経済界に進みました。日本銀行に入行後、昭和8年三和銀行(現UFJ銀行)が設立され初代頭取になりました。斎藤茂吉(もきち)門下の歌人としても知られていました。

中根貞彦の生家である武家屋敷

二王座歴史の道の一角(旧真光寺前)に、三和銀行の初代頭取の生家があります。現在は一般住宅として使用されていますが、武家屋敷の姿を留めています。

中根貞彦の生家である武家屋敷
住 所:
臼杵市二王座(旧真光寺前)
駐車場:
 
地 図:
中根貞彦の生家である武家屋敷の地図を見る

吉四六さん

吉四六さん

とんち話で有名な「吉四六さん」は実在した人物で、本名を廣田吉右衛門と言い、江戸時代初期に現在の臼杵市野津町野津市で生まれ88歳で亡くなったといわれています。

「吉四六さん」は、その当時から年貢のとりたてに苦しむ庶民の味方になったり、つらく厳しい時代であっても、庶民の相談役となり持ち前のとんち・奇才で人々の難儀を救ったといわれています。そのとんち話が吉四六話となり、現在も230話ほどが代々受け継がれています。

野津町の普現寺には、吉四六さんのお墓があります。

二孝女

二孝女

二孝女物語は、豊後臼杵藩大野郡川登村(現、臼杵市野津町大字泊)から、江戸時代、旅先で病に倒れた父を迎えに常陸国(現・茨城県)まで苦難の旅をしたツユ・トキ姉妹の物語です。

父初衛門が親鸞聖人所縁の地を巡りながら、亡き妻の菩提を弔おうと供養巡礼の旅に出ますが、持病が悪化し、常陸国の青蓮寺(しょうれんじ)で療養する事を余儀なくされます。数年が経過し初衛門の消息が判明し、これを聞いたツユとトキは居ても立っても居られず、臼杵藩の許可を得て豊後臼杵から常陸水戸の青蓮寺まで2か月近い旅の末に父と再会を果たします。

姉妹の地元にある臼杵市立川登小学校には校庭に記念碑が建てられているほか、校歌の中で二孝女が唱われています。

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