歴史と文化

大友宗麟(戦国時代)

大友宗麟

大友宗麟は享禄3年(1530年)、大友家第20代家督の義艦(よしあき)の嫡子として府内(大分市)に生まれ、元服後は義鎮(よししげ)と名乗ります。

弘治2年(1556年)臼杵湾に浮かぶ天然の要害とも言える丹生島に城を築き、府内の館から移り住んだことにより城下に町が形成されました。これが今日、臼杵のまちの礎となったものです。

宗麟は、海外貿易の振興をはかり、外国の風土、学問、宗教、文化に興味を示して積極的に吸収し、理解に努めたということは、当時、すでに国際人としての感覚を身に備えていたと見ることができます。

永禄3年(1560年)には九州六カ国(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職と九州探題についています。晩年になると宗麟のキリスト教に対する熱意が高まり、天正6年(1578年)臼杵の教会において洗礼を受け、ドン・フランシスコと命名されています。

この後、日向国の務志賀(むしか・現、延岡市)にキリスト教の理想郷を設置するため出陣しましたが、耳川の合戦に失敗してからは急速に国力を弱め、失意のうちに生涯を終えています。

まさに波乱万丈の一生を送った名将といえます。       (瑞峰印蔵)

臼杵城跡

戦国大名大友宗麟が築城した臼杵城は、文禄2年(1593年)以降、福原直高、太田一吉が相次いで城主を務めたのち、慶長5年(1600年)からは、美濃から入封した稲葉氏が廃藩置県まで15代にわたってこの城を居城とし、臼杵藩の支配にあたってきました。

この城は丹生島に築城されたこと、また、島の形が亀の姿に似ていたところから別名、丹生島城とも亀城とも呼ばれていました。

廃藩置県後、明治6年(1873年)明治政府は臼杵城の廃城を決定し、取り壊され「公園地」に指定され、現在は臼杵公園として市民の憩いの場となっているとともに、春は桜の名所として市内をはじめ県の内外から訪れる花見客でたいへんな賑わいを見せます。

この公園には、今日でも当時の城の名残をとどめる一部の建物(卯寅口門脇櫓・畳櫓)や空堀、門跡、井戸跡、石垣などが残っています。

臼杵城跡
住 所:
臼杵市大字臼杵
電 話:
0972-63-1111
(臼杵市役所おもてなし観光課)
営業時間:
 
定休日:
 
ホームページ:
 
地 図:
臼杵城跡の地図を見る
備 考:
 

サーラ・デ・うすき 交流ホール

「サーラ・デ・うすき」は、臼杵市の中心部にある交流ホール、学古館、ふれあい情報センター、イベント広場からなる多目的交流施設です。

その交流ホールでは、南蛮文化展示コーナーを設け、大友宗麟が日本で初めて使った大砲「国崩し」のレプリカや、ポルトガルとの関係を示す資料などを展示しています。

サーラとは「居間・サロン」と言う意味で、このサーラ・デ・うすきでは、観光情報を入手したり、体験工房、インターネットなどもすることができます。

サーラ・デ・うすき
住 所:
臼杵市大字臼杵210-3
電 話:
0972-64-7271(サーラ・デ・うすき)
営業時間:
9:00~18:00
定休日:
年中無休
料金:
入館は自由(無料)
ホームページ:
なし
地 図:
サーラ・デ・うすきの地図を見る
備 考:
市営駐車場をご利用下さい。

久家の大蔵 アズレージョ

久家の大蔵は1868年(江戸時代末期)に棟上げされた古い蔵で、造り酒屋の『久家本店』がかつて貯蔵庫として使用していた酒蔵で、現在は改修してギャラリーとして開放しています。

この蔵の外壁や内部には、アズレージョの壁画が装飾されています。この壁画は、ロジェリオ・リベイロ氏により制作された ポルトガル独自のアズレージョと呼ばれるパネルで構成されたものです。

天使や聖職者などが描かれたパネルの中には大友宗麟も描かれたパネルもあり、往時のキリシタン文化を彷佛とさせる絵柄 ばかりです。

久家の大蔵
住 所:
臼杵市浜町
電 話:
0972-63-1111(臼杵市役所おもてなし観光課)
営業時間:
9:30~17:00
定休日:
年中無休
料金:
見学無料
地 図:
久家の大蔵の地図を見る
備 考:
 

大友義鑑(よしあき)の墓

大友義鑑は、嫡子義鎮(宗麟)を廃して三男塩市丸に家督を嗣がそうとしたが、天文十九年(1550年)2月10日に起こった「大友二階崩れの変」とよばれる事件により、津久見美作守、田口蔵人らの手によって、重症を負い、その二日後に没した。

「臼杵小鑑」や「寺社考」等によると、遺骸は野津院寺小路村に義鑑が建立したとされる、「菩陀羅山到明寺(ぼだらさんとうめいじ)に葬られたとされている。

住 所:
臼杵市野津町寺小路(到明寺跡)

宗麟公婦人の墓(大橋寺)

「大友宗麟公夫人の墓」が臼杵市平清水の大橋寺にあります。もと海添大寺浦の「宝岸寺」にあったものを、大橋寺に移転したものです。

住 所:
臼杵市福良平清水115
電 話:
0972-62-5963(大橋寺)

稲葉家(江戸時代)

稲葉氏

稲葉家の初代稲葉貞通は、関ケ原の合戦における軍功により、慶長5年(1600年)に美濃国(現在の岐阜県)の郡上八幡から臼杵城に転封しました。

海辺・大野・大分三郡の内に領土を持った5万石の禄高であった臼杵藩は、その後、明治4年(1871年)15代藩主久通の代で廃藩置県を迎えるまでの約270年間稲葉家により統治され、質素倹約、勤勉といった臼杵人気質の礎を作り上げていったのです。

二王座歴史の道、旧真光寺

二王座付近は、狭い路地のいたるところにどっしりとした量感溢れる門構えの武家屋敷跡、白壁の土蔵や宗派の異なる歴史ある寺院が軒を連ね、城下町特有の面影を残した地域です。

中でも、廃寺を改修し無料休憩所として開放されていてる旧真光寺の2階から眺める二王座の風景は多くの旅人に安らぎを与えています。

この地区は、古く祇園社(現在の八坂神社が鎮座し、その門として仁王門があったことから、現在は二王座を呼ばれるようになったと言われています。

二王座歴史の道
住 所:
臼杵市大字二王座
電 話:
0972-64-7130(臼杵市観光情報協会)
営業時間:
8:30~17:00(旧真光寺)
定休日:
年中無休
料金:
無料
地 図:
旧真光寺の地図を見る
備 考:
平成5年11月には国の都市景観100選に選ばれています 。
稲葉家下屋敷前の市営駐車場(有料)をご利用下さい。

稲葉家別邸 (通称:稲葉家下屋敷)と旧平井家住宅

稲葉家別邸は、廃藩置県に伴って東京へ移住した旧臼杵藩主・稲葉家の臼杵滞在所として明治35年(1902年)に建築されました。建築は近代に入ってからのものですが、武家屋敷の様式を色濃くとどめた屋敷です。

旧平井家住宅は、稲葉家別邸に隣接している江戸時代の建築様式を残す上級武士住宅です。

稲葉家下屋敷
住 所:
臼杵市大字臼杵6番6
電 話:
0972-62-3399(稲葉家下屋敷)
営業時間:
9:00~17:00(最終入館は16:30)
料金:
大人320円、小人(小・中学生)160円
20名以上団体割引あり
地 図:
稲葉家別邸の地図を見る 稲葉家下屋敷邸内写真
備 考:
国登録有形文化財(稲葉家別邸)、
大分県指定有形文化財(旧平井家住宅)
稲葉家下屋敷前の市営駐車場(有料)をご利用下さい。

旧丸毛家屋敷

臼杵藩の中級武士であった丸毛氏の旧丸毛家屋敷は、江戸時代後期の建築様式をとどめる臼杵でも数少ない武家屋敷のひとつです。

最近まで一般住宅として使われていたにもかかわらず当時の姿をそのままとどめています。

旧丸毛家屋敷
住 所:
臼杵市大字海添
電 話:
0972-63-1111(臼杵市教育委員会文化・文化財課)
営業時間:
9:00~17:00
定休日:
月曜、祭日の翌日
料金:
無料
地 図:
旧丸毛家屋敷の地図を見る 丸毛家邸内写真
備 考:
駐車場あり

臼杵のキリシタン文化

臼杵とキリスト教

1556年に大友宗麟が臼杵に築城して府内から臼杵へ移ると、宗麟の人柄を慕った府内のキリシタンたちが大勢、臼杵へ移住しました。彼らは城と武家屋敷しかなかった臼杵城下を開発し、(町八町のはじまり)、1560年代に臼杵教会を宗麟の協力のもとで建立しました。

臼杵の町は、キリシタンによってつくられたものであったのです。

日本で最もキリスト教に理解と愛情をしめした宗麟のもと、1580年代には日本で最も大きくて美しい聖堂や、修道士の教育機関であるノヴィシャド(修練院)が相次いで建てられ、日本中から見学者が訪れていたと宣教師たちは記録しています。

また日本での布教方針を決める重要な会議が臼杵で開かれるなど、ここ、臼杵はまさに日本におけるキリスト教文化の中心都市であったのでした。

この16世紀後半という時代、日本における臼杵は西洋文化の窓口であったのです。

下藤キリシタン墓群

臼杵市野津町の下藤地区共有墓地で16世紀末から17世紀初頭(安土桃山時代から江戸時代初期)に造られたキリシタン墓地が平成23年(2011年)に発見されました。

49基のキリシタン墓があり、この数は国内最大規模で、江戸時代の厳しいキリスト教弾圧を免れて、このようにキリシタン墓がほぼ完全な形で残っていることは珍しく、現在は調査中で見学はできませんが、今後の公開が期待されます。

住 所:
野津町下藤

磨崖クルス

円の中に雲形台に乗った干十字章を陽刻したものです。年代は不明ですが大友宗麟が豊後を治めていた時代に作られたものとされています。現在は、個人が所有しています。

磨崖クルス
住 所:
臼杵市野津町大字宮原字寺小路
(国道10号線沿い)

マリア観音(見星寺)

臨済宗妙心寺派の見星禅寺の境内には一言地蔵と呼ばれる隠れキリシタン時代のマリア観音(織部形蹲)があり、戦国大名大友宗麟の時代を偲ぶことができます。

旧丸毛家屋敷
住 所:
大分県臼杵市臼杵277
電 話:
0972-62-3672(見星禅寺)

キリシタン地下礼拝堂

横穴式古墳を利用したとされる隠れキリシタンの地下礼拝堂です。地上には洞穴を隠すようにお堂がありますが、洞内の五輪塔には明瞭な十字が刻まれ、天上の中央にも十字が刻まれています。

当時のキリシタン弾圧の中、人々の信仰心の深さを物語っています。

住 所:
臼杵市野津町大字吉田一ツ木

掻懐キリシタン墓

かまぼこ型と直方体型をした2基の墓があり、2基とも正面に十字架が彫り込まれています。

16世紀中期から17世紀初期にかけて造られたものと推定されています。

住 所:
臼杵市掻懐(かきだき)

リーフデ号の漂着

慶長5年(1600年)春、一隻のオランダ船が、臼杵市佐志生の黒島に漂着しました。

船の名前は「リーフデ号」、航海長はイギリス人「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)」、水先案内人はオランダ人の「ヤン・ヨーステン」でした。

2人はその後、大砲などの武器を操作する技術や西洋の新しい技術を買われ、徳川家康の外交顧問として活躍しました。リーフデ号の漂着は、日本の大きな転機となった事件のひとつでした。

黒島

黒島

1600年オランダ船リーフデ号が到着した黒島、佐志生海岸から約300mの距離にあり周囲約3kmの島は夏場の海水浴場として人気があります。

島内の公園には三浦按針上陸記念碑が昭和41年に建立されています。

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